交通博物館

竣工:昭和11年(1936)/設計:土橋長俊(伊藤滋説もあり)
千代田区神田須田町1−25


大正10年(1921)、鉄道開業50周年記念として東京駅北側の高架線下に最初の鉄道博物館が開館しましたが
施設が手狭になったため、昭和11年(1936)に万世橋へと移転してきます。

関東大震災で焼失した初代の万世橋駅跡に応急復旧で建てられた2代目万世橋駅舎を撤去し、
その基礎部分をつかって現在の博物館兼3代目万世橋駅舎が建設されました。
昭和18年(1943)の万世橋駅廃止までは博物館と駅が同居していた形です。

昭和20年には戦争激化のため休館しましたが、昭和21年、交通文化博物館として再開。
昭和23年に交通博物館と改称して現在に至っています。

残念ながら平成18年5月14日で閉館、さいたま市に移転します。

当時流行していたインターナショナルスタイルで建築されました。現在は正面の敷地一杯に増築されているので元々の建物が見づらくなっています。


交通博物館の顔として有名な0系新幹線とD51。閉館日が近いので大変な混雑です。
新幹線の右側に見える窓部分がかつての万世橋駅入口で昭和18年まで使われていました。

子供の頃に来た時と雰囲気が全く変わっていないことに驚きました。天上に吊り下げられた複葉機も昔のまま。なんとなく当時を思い出してしんみりします。

階段の雰囲気も昔のままで素っ気無いデザイン。当時はとてもモダンな建物だったらしいです。

『特急こだま』の食堂車(サシ151型)を模した『こだま食堂』ももうすぐ閉鎖。
閉館を惜しんで来館した人たちが並んでいます。
メニューはカレー系のみになっていました・・・


明治45年の万世橋駅創建当時の中央階段を1F休憩室から見ることができます。

石の階段と上部まで壁面タイル貼りという立派なものです。残念ながら立入ることはできません。

特別公開されている万世橋駅東京寄り階段。こちらは予約制で見学可能。
中央階段とは違ってコンクリ打の簡素な造りになっています。

万世橋駅は昭和18年(1943)に営業休止となり、その後は一度も使われていません。

万世橋駅のホームはまだ残っています。外に出ることはできませんが今回の特別公開では当時の階段を登ってホーム出口まで行くことができます。

閉館記念装飾として神田川に面したレンガアーチ橋はパネルで飾られました。


上の写真で一番左側のアーチの内部が公開されています。鉄の橋桁、レンガも創建当時のものです。

夜間は美しくライトアップされて水面に映ります。

おまけ1 交通博物館の正面

博物館の正面にあるこの建物、博物館創建時の写真(昭和11年)を見てみると全く同じ姿で写っていました。

戸袋の部分にはこんな模様が施してあります。

おまけ2 かつて交通博物館前にあった広瀬中佐の銅像

明治43年5月29日(1910)、広瀬中佐銅像除幕式の絵葉書。
万世橋駅落成の2年前なので後ろに駅舎が見えません。

現在、博物館前庭にある機関車善光号の場所がこの場所らしいのですが全く痕跡がありません。
戦後に撤去されたのは確かですが、何処に行ったのか謎に包まれています。

広瀬中佐と杉野兵曹長の物語は部下思いの軍人の鑑として、戦前は誰でも知っている軍神となり文部省唱歌にもなりました。

『広瀬中佐』 尋常小学校唱歌(卷四)
大正元年十二月

一、
轟く砲音(つつおと)飛び来る弾丸(だんがん)
荒波洗うデッキの上に
闇を貫く中佐の叫び
「杉野は何処(いずこ)杉野は居ずや」

二、
船内隈なく尋(たず)ぬる三度(みたび)
呼べど答えず探せど見えず
船は次第に波間に沈み
敵弾いよいよ辺りに繁(しげ)し

三、
今はとボートに移れる中佐
飛び来る弾丸(たま)に忽(たちま)ち失せて
旅順港外恨みぞ深き
軍神広瀬とその名残れど

初代万世橋駅と写っている絵葉書。
当時の駅前は中央線の一大ターミナルとして賑わう場所だったで、後にできる東京駅の習作といわれる辰野金吾設計による素晴らしい駅舎が建てられました。


関東大震災後に建てられた二代目万世橋駅。広瀬中佐の銅像はそのままですが、ターミナル駅としての機能が無くなった万世橋駅はとても簡素な造りになってしまっています。
この駅舎を基礎にして交通博物館が建てられました。

おまけ3 秋葉原の高架下

交通博物館といえば秋葉原。この絵葉書は戦前の総武線秋葉原高架橋。
現在の秋葉原は家電、PC、オタク(?)の街として世界的に有名で、ガード下にも店舗がぎっしり入っていますが、戦前はこんなにすっきりとして東洋一の大陸橋と呼ばれていました。

昭和25年頃からガード下には次々と電気店が入り始め電気の街が形成されてゆきます。